学校での実践:国際暁星学園 ヨハネ研究の森コース

フィロソフィ教育/学校での実践

国際暁星学園 ヨハネ研究の森コース

「すべての学びは、哲学に向かう」

ヨハネ研究の森の学び
先生や先輩たちの恐ろしいほどの読書量や、学習量、それに加えて、年齢に関係なく交わされている議論。皆が自分のテーマに向かって、限りなく探求し続ける姿に、誰もが深い感銘を受けることでしょう。

① 年間統一テーマ「人類史」の設定
年間を通して検討するテーマとして「人類史」を設定。人類の起源と現在に関わる研究を通して、「自分とは何ものか」「人間とは何か」を問い、知の本質に迫ります。
理系・文系の枠を超えた教科横断的な研究活動は、すべての子どもたちに包括的な知の体系を生み出します。自らの知と「生きることの意味」が結びつく、従来の学校教育とは一線を画す「学び」がヨハネ研究の森では日常的に展開されているのです。

② セッションとゼミによる「理解の相互形成」
学年を問わず全員が参加する「セッション」や、教科ごとに行われる「ゼミ」では、参加者同士が対話を通して互いの理解を共有し、新たな知識を再構築していきます。
私たちが「理解の相互形成」と呼ぶこの過程を通して、子どもたちは自分自身の知識と理解をつくりあげていくのです。同時に、自分の理解を他者に伝える表現力も、こうした活動の中で磨かれていきます。

③ 豊かな知的思考を生み出す「研究室」
書物と植物に囲まれた広大な「研究室」が、ヨハネ研究の森で学ぶ人たちの知的活動の拠点です。全寮制によって可能となる豊富な学習時間は、自ら学ぶための空間であるこの「研究室」で、有効に活用することができます。
明るく広々とした学習空間で、自分専用の大きな机に座った子どもたちは、いつも心ゆくまで書物と向かい合い、学びに没頭しています。

 

ヨハネ研究の森の生活

ヨハネ研究の森に加わった子どもたちは、いつの間にか先生や先輩たちと同様に、自分自身のテーマを見つけ出し、新しい価値形成を遂げていきます。ここでは、「生きることの意味」が、確かな手応えで共鳴しあっているのです。

① ボーディング・スクールの特長を活かした「学びの生活」
全寮制であるヨハネ研究の森では、寮での生活すべても、生徒たちにとっての学びの対象です。生徒たちは、寮生活を通じて、年齢も出身地も性格も異なる多くの他者と出会い、自分が彼らと共に生きるとはどういうことかを真剣に模索するようになります。
学びとは、ただ本を読んだり文章を書いたりすることだけで成立するものではありません。「生きることはどういうことか」を考え、他者の中で実践していくことで初めて、様々な知識が意味を持つものとなるのです。

② 人と人とが共に生きる「学びの共同体」
ヨハネ研究の森は、幅広い年代の子どもたちと大人とが、文字通り寝食を共にしながら学びあう、ひとつの共同体となっています。そして、この場所で生きるすべての人が「学ぶ人」であり、一方的に「正しい知識」を教える「先生」と、教わる「生徒」という関係は、ヨハネ研究の森には存在しません。
私たちは、自ら学ぶ子どもたちを「研究員」、彼らと共に生き、共に学ぶ先達としての大人を「主任研究員」と呼んでいます。

③ 自らの生きる環境を自ら創る「学びの場」
ヨハネ研究の森で学ぶ人は、大人も子どもも、ただサービスを享受するだけの消費者であってはなりません。ひとりひとりが「学びの共同体」の一員として、自分が生きる「場」を自ら創り上げようとする高い意識を持ち、日々の学びに臨んでいます。
ヨハネ研究の森では、日々の掃除や植物の手入れ、学習環境の整備など、生活を支えるための活動すべてが、そこで暮らす私たち自身の意志によって行われています。生きることの根源をないがしろにせず、すべてを学びと考えるのが、ヨハネ研究の森なのです。

④ 学びの先達と出会う「特別講演会」
ヨハネ研究の森では、社会の第一線で活躍する研究者・専門家や、高い使命感をもって活動する国際的企業・組織の方々を数多くお招きし、特別講演会を開催しています。
学びの先達と出会い、共に学ぶ中で、子どもたちは本物の学びに憧れを抱き、その生き方を自らのものにしたいと願うようになるのです。

⑤ 自ら学び、生き方を創る
こうしたヨハネ研究の森での日々を通して子どもたちが身につけるのは、今この瞬間を大切に生き、その中で起きるすべてのことを探求し、人と共に実践に臨む姿勢です。そして、子どもたちは自ら学び、自らの生き方を創る人となっていきます。
教えるべきは、知識ではありません。知識を得る方法なのです。

 

倉石寛によるヨハネ研究の森コース・研究員へのインタビュー

以前、11月にグローバル教育研究会というヨハネ教育の森コースの研究発表の機会がありました。確か、『東アジア文明圏と「日本」の誕生』というテーマでした。テーマが魅力的で三かさえていただきました。昨年までのテーマが「文明と災害』、そして今年度以降は言語ということでした。それまでに皆さんが学んだことと結びついているというか、底流にあってその上に今が築き上げられているという感じがしました。学びが皆さんのなかに深く根付いている感じです。そこでつい、どのような学び方をしているのかふときいてみました。

その時の答えですが、
A 私たちの勉強は授業時間で終わりません。学びはずっと続いているのです。
Q 授業が終わったら学びが終わらないというのは?
A 私たちはいつも生き方を考えているからです。生き方を学んでいるんです。授業で知識を学んでいるのではないのです。

授業で終わらないも驚いたし、生き方を考えているというのにはもっと驚きました。
先ずですが、この学びには寮生活の果たす役割が大きいのではないかという気がしており、寮での生活についてお話を伺いたいのですが。

“授業で学びが終わりではない”
A 授業が終わった後、 と言ってもヨハネでは、時間になったら授業時間がおしまい、いう感じではありません。寮に帰ってからも、読んだ本や映像についてだったり、こんな切り口もあるなどよく議論をします。自分が考えていることをみんなで述べ合うのです。
Q 普通の学校では「授業から解放され」思ったことを自由に喋れるという感じですが。
A ヨハネでは授業と生活は切り離されたものではなく、学ぶことと生活が結びついています。授業後も学びは続く感じです。食事の時でも議論は始まります。菓子やお茶が出る時もあれば、先生に相談してきちんと準備してやる場合もあります。
A 大きい子だけでなく、小学生も参加します。わたしはそれで振り返りというものを自然に学んでいった気がします。学びへの振り返りは本当によくやります。空いているときは先生も参加されますが、企画も含めて生徒が自主的にやっています。
Q 先生も参加。なるほど確かにヨハネでは、生徒は研究員、先生は主任研究員、学ぶものとしては対等という精神がありますね。(ヨハネの校名は“研究の森コース”なのです。)

“生き方を考える学び 生活と結びついた学び”
今、学びは生活と結びついているとのことですが。以前お会いした生徒さんからは私たちは「生き方を考えているんです」とお聞きしましたが、どのような学びなのか、もう少し。
A 私たちの学びは生活と結びついているというか、生活こそが学びだと思います。
説明しにくいのですが、私の考えですが。前の学校では、「花はこう咲きます」といった知識や答えの導き方といった方法を教わってきました。でも“根っこの部分”、どうしてこのようになっているのだろうか、このように咲くに至ったプロセスはわかりませんでした。自分で、自分の生きて行く道を考えた時にも、方法でなくどのように生きて行くかが大切だと思いました。その先輩は、ハウツウではなく、根の部分、どうしてそうなるのか、ということを日常の中で普段に考えているということではないかと思うのですが。
Q 花はなぜそのように咲いているのかを考えていくような学び、は自分にとってどのような生き方こそが自分の道なのか、という日常の私の生き方探求と同じ問題だということですね。ヨハネの掲げる“すべての学びは哲学に通ずる”の一端を垣間見た気がしますが。

“深さについて”
今のお話を聞いていると、深いところへ向かう姿勢を感じるのですが、実はそれに少し関連して、皆さんの聞く力にもその深さが感じられるのですが。聞く姿勢について。
A 私たちはその人の言葉ではなく、その人が言葉で何を伝えたいと思っているのか、言葉の奥にある見えない部分を聞き取ろうという姿勢で聞きます。
Q その人の背景とか、生きてきた道とか、その人の全体からですね。
A 一緒に生活しているので、関心はもちろん(ヨハネでは個人の本棚があり、何に関心があるかがわかる)、その人の生きてきた道、さらには言葉だけでなく、その人の他者への接し方や物事への向かい方など、全体から読み取っていく感じです。
Q それは自分の生き方考え方からそうした発想が生まれてくるのでしょうか。
A そうかもしれません。
Q 横瀬先生のお話の中に、禅の修業を例に、身体全体で習得するという表現がありましたが、そんな感じですか。
A そうです。ヨハネでは、日常生活のなかの所作を通じての学びがあるように思います。学ぶというか、入っていくという感じです。全体を通じて学んでいく空間という感じです。
A 例えばウォーキングでも、意味を聞くよりはまずはやっていってから考える。身体で感じていく方法もあると思いました。

“自立した個”
Q 共同の生活ですと、確かに共有部分があり結びつきは深くなると思うのですが、同化していくというのとは違うのですか。
A 一緒に生活していても、それぞれ歩んできた道やであった人が違いますから、考えも違い価値観も違うので、意見が衝突することもあります。ヨハネの子出身県や国も違うのがほとんどですから。
A 意見の押しつけはありません。そう考える根拠を聞いていくとなるほどと思うところがあって自分の考えが変わる時もあります。日々の行動や判断についても、どのような哲学生き方からそれが出てくるのかを分かりあうようにしています。一緒に生活していますから、分かり合えずにいるのはつらいですから。
Q ディベートのような議論のゲームというか、優劣をつけるのとが全く異なるものですね。むしろ、統合していくというか響生でしょうか。自分の中で統合していく契機となる議論ですね。その核となるのがセッションになるんでしょうか。

“自分と向き合い、社会と向き合う進路選択”
Q 聞けば聞くほど聞いてみたいことが増えたのですが、時間がないので最後に進路について
A ぼくは人間関係を考えてきてそこを研究するには背宇治学かなと考えました。
A 僕の場合は哲学に関心を持ってきたのですが、人間とは何かを問うていくうちに、人工知能の方から人間というものにアプローチしようと考えるようになりました。
A 僕は甲南大学の理学部にしました。キューブという研究機関があって、そこの先生がヨハネに来て授業をしてくれてその存在を知ったのですが、プロジェクトを通してともに学ぶという学び方がヨハネと似ていたので。

ここで時間が無くなってしまったので。主任研究員の笠原先生にヨハネの進路選択についてお聞きした。

ヨハネでは生徒の進路について、生徒・教員・保護者による話し合いをしていくのですが、一回3時間それを数回から十数回本当に何回も熟議します。とくに特徴はその内容で、普通の学校と全く異なり、個人の成績や大学案内、偏差値などまったく登場しない。とくに教員と、これからどのような世界になっていくかをともに考えていく。その共有の上にその世界の中で自分が何かを成し遂げられる範囲というものを考えていきます。そこから自分が学ぶ方向を見出していくという過程をたどります。それは自分を取り巻く社会と、自分自身に向き合う営みといえます。その中で、自分自身の中に在った自分の好きだった分野、ずっと関心を抱いてきた学びが現れてきます。人工知能を目指した子も、この間哲学に関心を持ってきたけれど、ずっと小さいころから自然科学系が好きだったのが、自分がそれによって生きて行く道として浮かび上がってきたのだと思います。

私たちの生きて行く社会、そこにまさに主体的に自分事として関わっていく、今まさに求められている18歳像を見た思いがした。

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